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11月18日 土木の日

2009年11月18日(水) 08時16分40秒 スタッフブログ

1879(明治12)年のこの日、工学会(日本工学会)が設立されました。
 また、「土木」という文字を分解すると「十一」と「十八」になることから、土木学会、日本土木工業協会などが建設省(国土交通省)の支援で、1987(昭和62)年に記念日に制定しました。

土木に関する昔話

むかし、飛騨(ひだ→岐阜県)の山おくに、佐吉(さきち)という、彫り物のとてもじょうずな男がすんでいました。
 あるとき、佐吉はうでだめしをしようと、旅に出かけました。
 ところが、尾張(おわり→愛知県)の国まできたときには、持っていた旅費をすっかり使いはたしてしまいました。
 宿の支払いにもこまった佐吉は、宿の主人になにか彫り物をさせてほしいとたのみました。
「よし、それじゃ、宿代のかわりに、なにか彫っておくんなさい」
 主人がゆるしてくれたので、佐吉はさっそく彫りはじめました。
 よく朝、佐吉はみごとな大黒さまを宿の主人に差し出しました。
「ほほう。これは見事。こんなすばらしい大黒さまは見たことがない。これは、家の家宝にさせていただきます」
  大喜びする宿の主人に、佐吉は申し訳なさそうに。
「彫る木が手元になかったもので、このへやの大黒柱(だいこくばしら)をくりぬいて使わせてもらいました。おゆるしください」
「・・・?」
 宿の主人が大黒柱を調べてみましたが、きずひとつ見当たりません。
「はて、この大黒柱でしょうか?」
「はい。これです」
 そういって、佐吉がポンと手をたたくと、カタンと、柱の木がはずれました。
 なるほど、たしかに中は空洞です。
 すっかり感心した宿の主人は、佐吉のことを、そのころ日光東照宮(にっこうとうしょうぐう→詳細)の造営(ぞうえい→建物を建築すること)にたずさわっていた彫り物名人、左甚五郎(ひだりじんごろう)に知らせました。
 甚五郎は、さっそく佐吉をよびよせ、
「おまえのとくいなものを見せてくれ」
と、いいました。
 そこで佐吉が彫ったのは、いまにも動きだしそうなみごとな仁王(におう)さまです。
 甚五郎はすっかり感心して、佐吉を東照宮の造営に参加させることにしました。
「わたしは、りゅうを彫ろう。佐吉、おまえは山門のねこを彫れ」
 左甚五郎にみとめられたうれしさに、佐吉は力いっぱい彫りつづけました。
 毎日毎日、彫りつづけ、とうとう山門のねこがほりあがりました。
 そして、甚五郎やほかの弟子たちの仕事もすべておわり、東照宮は完成しました。
 検査の役人たちも、そのみごとさには、ただおどろくばかりです。
 甚五郎をはじめ、みんなは、たいそういい気分になり、その夜は酒やごちそうでおいわいしました。
 酒を飲み、歌い、もりあがったみんなは、疲れていたのか、たくさんのごちそうを残したまま、グーグーと、ねむってしまいました。
 ところがそのよく朝、みんなが目ざめてみるとどうでしょう。
 あれほどたくさんあったごちそうが、一ばんのうちになくなっているのでした。
「おまえが食べたんじゃろうが!」
「とんでもない、おまえこそ!」
 弟子たちのいいあらそいを聞くうちに、甚五郎と佐吉は、はっと顔を見合わせました。
 甚五郎は、のみと木づちを持ち、山門へといそぎました。
 佐吉もだまって、あとを追います。
 山門へきてみると、佐吉の彫ったねこのまわりに、ごちそうを食いちらしたあとがあります。
 甚五郎は、クワッと目を見開き、カーンと、のみと木づちをふるいました。
 その一刀のもとに、佐吉のねこはねむりねこになってしまいました。
 佐吉は、甚五郎のうでのあまりのすごさに、思わず地面にひれふしました。
「左甚五郎先生!」
 甚五郎は、佐吉のかたに手をおき、しみじみといいました。
「佐吉よ、彫り物のねこにたましいが入るとは、おまえはまことの名人じゃ。これより、わしの名をとって、飛騨の甚五郎と名のるがよい」
「はいっ、ありがとうございます!」
 佐吉の彫ったねこは、そのあと、「日光東照宮のねむりねこ」として、とてもひょうばんになりました。
 それにつれて、飛騨の甚五郎の名まえも、たいへん有名になったということです。





11月17日 将棋の日

2009年11月17日(火) 08時25分57秒 スタッフブログ

江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、この日を「御城将棋の日」とし、年に1回の御前対局を制度化しました。
 これを記念日として日本将棋連盟が1975(昭和50)年に制定しました。
 吉宗は1716(享保元)年から1745(延享2)年までの30年間在位しており、「享保の改革」で有名。

将棋に関する昔話

横町のいんきょと、表通りのいんきょが、二人で将棋をさしています。
 どうやら横町のいんきょのほうが、二回続けて負けて、この三回めも負けそうです。
「待った、待った」
 横町のいんきょが待ったをすると、
「いや、待てぬ。これで二回も待ったをしたのだ、もう、だめだ」
と、表通りのいんきょは、冷たくいいます。
「もう、一度だけだ、たのむ」
「いいや、だめだ」
「そこを何とか、たのむ」
「だめだったら、だめだ」
 しまいには、
「なにをー!」
「なにぃー!」
と、いって、将棋盤(しょうぎばん)をひっくりかえすしまつ。
「もうおまえとは、一生、将棋はささんぞ」
 おこって、別れてしまいました。
 ところが、ふたりとも、その日の夕方にもなりますと、なんとなくそわそわ。
「あのとき、待ったをしてやりゃあよかった」
「あのとき、すなおに負けを認めていれば、いまごろは、酒をくみかわして・・・」
と、しきりに、けんかをしたことがくやまれてなりません。
 そこで、横町のいんきょは、何とか、なかなおりの方法はないものかと、表通りまでやってきますと、表通りのいんきょも、そわそわ、そわそわと、門を出たり入ったりしております。
 二人は、ばったりと目があうと、つい、
「さっきのは、おまえがわるいんだぞ!」
 もういっぽうも負けずに、
「いいや、おまえがわるいんだ!」
「では、どっちがわるいか、将棋できめよう」
「おお、将棋で決着をつけるぞ!」
と、いってあがりこみ、さっそく将棋盤をかこんで、さし始めました。
 将棋好きの人は、だいたいがこんなものです。





11月16日 幼稚園記念日

2009年11月16日(月) 08時21分19秒 スタッフブログ

1875(明治8)年、東京の御茶ノ水(湯島1丁目)に東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が開校しました。
 そして1876(明治9)年のこの日、東京女子師範学校の構内に附属幼稚園が開園しました。
 これが日本初の幼稚園です。
 入園したのは当時の上流家庭の幼児50人ほどでした。

(他の記念日)

国際寛容デー
1996(平成8)年12月12日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1995(平成7)年、ユネスコ総会で「寛容原則宣言」と「国連寛容年のためのフォローアップ計画」が採択されました。

いいいろ塗装の日
日本塗装工業会が、創立50周年をむかえる1998(平成10)年に制定。
「いい(11)いろ(16)」の語呂合せ。

いいいろの日
愛知県の塗装・塗料に関する事業の業界団体「愛知昭和会」が1991(平成3)年に制定。
「いい(11)色(16)」の語呂合せ。





11月14日 パチンコの日

2009年11月14日(土) 08時19分13秒 スタッフブログ

全国遊技共同組合連合会が1979(昭和54)年に制定しました。
 1966年のこの日に同会が発足したことを記念しています。
 また、1930年のこの日に名古屋でパチンコ店第1号の営業が許可されています。

(他の記念日)

ウーマンリブの日
1970(昭和45)年、東京・渋谷で女性解放運動を高めるための日本初のウーマンリブの大会が開催されました。

いい石の日
山梨県石材加工業協同組合が1999(平成11)年に制定。
「いい(11)石(14)」の語呂合せと、石工職人が尊ぶ聖徳太子の命日であるこの日を「太子講」としていたことから。

埼玉県民の日
埼玉県が1971(昭和46)年に制定。
1871(明治4)年、廃藩置県によって埼玉県が誕生しました。
1871(明治4)年に埼玉県と入間県が誕生し、1873(明治6)年に入間県は群馬県と合併して熊谷県となりましたが、1876(明治9)年に熊谷県の一部が埼玉県と合併して、現在の県域となりました。

大分県民の日
「大分県あすをつくる県民運動推進協議会総会」で決議。
1871年(明治4)、廃藩置県によって大分県という名称が初めて使われました。

盛人の日
日本ベテランズ倶楽部が制定。
「い(1)い(1)とし(14)」の語呂合せ。





11月13日 うるしの日

2009年11月13日(金) 08時28分24秒 スタッフブログ

文徳(もんとく)天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が京都・嵐山の法輪寺に参篭し、虚空蔵菩薩からうるしの製法、漆器の製造法を伝授されたのがこの日であるとされていることから、1985(昭和60)年に日本漆工協会が制定しました。
 日本の伝統文化であるうるしの美しさを今一度見直して日本の心を呼び戻すことを目的にしています。

うるしに関する昔話

むかしむかし、宇都宮(うつのみや)に、うるし商人の武太夫(たけだゆう)という男がいました。
 武太夫は大金持ちでしたが、それにはわけがありました。
 数年前のある日、山奥の谷川のふちの底に、大量のうるしを見つけたのです。
 うるしは、うるしの木の皮から取れる汁で、おわんなどのぬり物につかわれます。
 そのうるしが長いあいだ水に運ばれて、ふちの底にたまったのです。
 うるしは高価な物で、無断で取ることを禁じられていましたが、武太夫はこの谷川の底のうるしを少しずつ売り、大金持ちになったのです。
 武太夫は秘密のうるしを、いつまでも自分だけのものにしておきたいと思いました。
 それで腕の良い細工師(さいくし)に、恐ろしいの細工をつくらせて、人が怖がってよりつかないように、うるしのあるふちの底に沈めたのでした。
 しばらくすると竜の細工は、上流から流れてくるうるしや水あかなどがついて、本物の竜のようになっていました。
 ある時、武太夫は十四歳になる一人息子の武助(たけすけ)を連れて、山奥のふちへいきました。
 そして、うるしの秘密を話すと、
「このうるしは、わしらだけのものじゃ。わざわざ木を切りつけて汁を取らなくても、いくらでもここへたまっておる。いいか、わしがするのをよく見て、うるし取りの練習をするんだぞ」
 武太夫は息子にいいきかせて、親子でふちへ入っていきました。
 すると竜の細工が、とつぜん頭を動かしたのです。
「おとう! 竜が! 竜が動いた!」
「何を馬鹿な。水の動きで、そう見えるだけだ」
と、 武太夫は言ったものの、見てみると、竜が大きな口を開けて、息子に襲いかかったのです。
 細工の竜は水の中にいるうちに魂が入って、いつしか本物の竜になっていたのです。
 あわてた武太夫は息子を助けようとしましたが、竜が相手ではどうにもなりません。
「武助ー!」
「おとうー!」
 やがてふちの水の上に、二つの死体が浮かびあがって下流へ流れていきました。
 二人の死体は二日目になって、村に近い川原で引き上げられました。
 取り調べの結果、武太夫はうるしの盗み取りをしていたことがわかりました。
 そして罰(ばつ)として、新しく建てたばかりの家や財産は、全て取り上げられてしまったのです。
 あとに残された武太夫の父親と奥さんは、とても貧しい生活を送ったという事です。





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