節分(せつぶん)は、現在では立春の前日(太陽暦の2月3日か4日)をさしますが、もとはそれぞれの季節がおわる日、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日をいいました。
節分につきものの「鬼はらい(やらい)」の行事は、中国の大儺(たいな)が源流(げんりゅう)で、おそろしい形相(ぎょうそう)の面をつけた呪師が疫鬼をおいはらう行事です。 日本では706年(慶雲3)に、たくさんの人民が疫病で死んだので、土の牛をつくって、はじめての鬼払い儀式が行われたことが、「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記されています。 その儀式は追儺(ついな)といい、朝廷では鎌倉時代まで大晦日の夜に行ったそうです。 節分といえば豆まきですが、節分に豆で邪鬼をはらう行事が初めて行われたのは、室町時代の京都で、「看聞(かんもん)日記」の1425年(応永32)の記録に記されています。 また、定番のかけ声の「鬼は外、福は内」は、「臥雲日件録」1447年(文安4)に、立春前夜に家ごとに豆をまき、「鬼は外、福は内」ととなえたと記されています。 やがて江戸時代になると、春をむかえる厄払いの行事として、諸国の神社や家庭にひろまり、体を豆でなでて厄をうつしたり、年齢の数だけ豆を食べたりするようになりました。 また、ヒイラギの葉がとがっていることから、「鬼の目突き」とよばれ、その先にイワシの頭をさして戸口にかかげると、邪気の侵入をふせぐとされています。 最近では、恵方巻(えほうまき)といって、節分に食べる太巻きがブームになっています。 節分の夜にその年の恵方(えほう→歳徳神の住む方角で、その年に吉となる方角)に向かって、目を閉じて願い事を思い浮かべながら、無言で太巻きをまるかじりするそうです。 ちなみに恵方は、5年ごとに同じパターンをたどり、 2008年(平成20年) 南南東(南微東) 2009年(平成21年) 東北東(東微北) 2010年(平成22年) 西南西(西微南) 2011年(平成23年) 南南東(南微東) 2012年(平成24年) 北北西(北微西) 2013年(平成25年) 南南東(南微東) 2014年(平成26年) 東北東(東微北) 2015年(平成27年) 西南西(西微南) 2016年(平成28年) 南南東(南微東) 2017年(平成29年) 北北西(北微西) 2018年(平成30年) 南南東(南微東) 〃 〃 〃 と、くり返されます。 恵方巻きの具材は何でも良いそうですが、七福神に因んで、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、伊達巻、うなぎ、でんぶ、その等の七種類の具を入れるのが良いとされています。 現在の恵方巻の起源は、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が、節分の前日に巻きずしの様な物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしていると言われています。
1920(大正9)年、日本初のバスガールが登場したのがこの日です。
東京市街自動車会社が車掌として採用しましたが、まだ女学生でさえ和服の時代に、バスガールの制服は黒のツーピースに白の襟というハイカラなものでした。
1953(昭和28)年2月1日午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声とともに映像がブラウン管に流れました。
これが、日本初のテレビの本放送。その後、続々とテレビ局が開設されていきます。
1797(寛政9)年1月31日、音楽家フランツ・シューベルトが誕生しました。
幼少の頃から、音楽に関しては「何も教えなくても何でも知っている」と周囲に言わしめるほどの天才だったといいます。 「未完成交響曲」をはじめ、1000曲にも及ぶ作品を書き残しています。
1970(昭和45)年のこの日から、東京都心部を皮切りに公衆電話からの市内通話「3分打ち切りが順次開始されました。
つまり、市内通話料金が3分で10円になったわけです。 公衆電話での長話を防止するために始められたものでした。 |
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