2010年3月17日(水) 08時25分57秒 |
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1959(昭和34)年のこの日、日本初の少年週刊誌「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊されました。 講談社発行の「少年マガジン」は一冊40円で、表紙は大関朝汐でした。 小学館の「少年サンデー」は30円。表紙を飾ったのは、野球界のスーパースター長嶋茂雄です。
2010年3月16日(火) 08時21分17秒 |
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1886(明治19)年のこの日、日本の博愛社がジュネーブ条約に加盟し、翌年日本赤十字社に改称しました。 これは、1864(元治元)年にアンリー・デュナンが提唱したジュネーブ条約により基礎が作られた万国赤十字同盟の運動を、外国で見聞してきた佐野常民らの尽力でした。
血に関する昔話
むかし、ロシアのある村に、バニアという男がすんでいました。 バニアは、なべやかまを売ったり、こわれたものをなおす仕事をしていました。 ある晩、仕事で帰るのがとてもおそくなってしまいました。 「もう、そとはまっ暗だ。今夜はあそこにとまるとしよう」 と、いって、バニアは古ぼけた教会のまえにウマをとめました。 教会にはだれもすんでおらず、まわりはしずまりかえった墓場でした。 「きみがわるいな。まあいい、ねるとしよう」 バニアはねごこちのよさそうな場所をさがすと、グーグーとねむってしまいました。 今夜は星空のきれいな日で、空にはまるい月がかかっています。 ボーン、ボーン。 教会の鐘(かね)が、十二時をうちました。 その時です。 墓場の地面がグラグラとゆれ出しました。 バニアはビックリしてとびおきると、あわてて近くの木のかげにかくれました。 すると、ゆれていた地面がバックリとひらき、中からおそろしい顔の魔物が出てきたではありませんか。 頭には棺おけのふたをのせ、目は青くひかり、口にはするどいキバがあります。 この魔物は、人間の血を吸って殺してしまう、吸血鬼にちがいありません。 月の明るい晩に墓場からあらわれて、人間の血をもとめてさまよい歩くのです。 バニアは木のかげで、ブルブルとふるえていました。 吸血鬼は棺おけのふたを教会のかベにたてかけると、人問の血をもとめて村のほうへいってしまいました。 「このままでは、村の人たちが殺されてしまう」 バニアは、村の人たちをすくう方法を考えました。 「そうだ! たったひとつ方法があるぞ」 バニアは、小さいころおばあさんから聞いたはなしを思い出しました。 《吸血鬼は太陽の光に弱く、明け方までに棺おけに入って、ふたをしっかりしめないと死んでしまう》 さっそくバニアは、教会のかべにたてかけてあった棺おけのふたをかかえると、木のかげにかくれて吸血鬼が帰ってくるのをまちました。 夜明け近くになると、吸血鬼が満足そうな顔で帰ってきました。 ところが、教会のかべを見てビックリ。 「ややっ、ふたがない! あれがなくては、おれは死んでしまう!」 吸血鬼は、ひっしになって棺おけのふたをさがします。 そのあわてたようすがおかしくて、バニアはクスッとわらってしまいました。 それに気づいた吸血鬼は、怖い顔でバニアの方にふり向きました。 「おまえだな、棺おけのふたをぬすんだのは! すぐかえさないと、おまえの血をぜんぶすってしまうぞ!」 でも、バニアも負けてはいません。。 「ふん、やれるものならやってみろ。この棺おけのふたをバラバラにしてやるぞ!」 と、いって、バニアは棺おけのふたに鉄のなベをふりかざしました。 「ああ、やめてくれ、やめてくれ!」 吸血鬼はなさけない声をあげました。 「じゃあ、今日はだれを殺してきたのかいえ! それから、その人間が生きかえらせる方法もいえ!」 吸血鬼は、かぼそい声でこたえました。 「村のグレゴリというじいさんだ。生き返らせるには、おれの服の左がわをきりとって、死人の部屋でもやせばいい。そのけむりが死人を生き返らせるのだ」 そこでバニアは、棺おけのふたを返してやりました。 吸血鬼はふたを頭にのせて、急いで墓にとびこみました。 ちょうどそのとき、ニワトリがコケコッコーとなきました。 夜が明けたのです。 「ギャアーー! ひと足おそかったか!」 朝日をあびた吸血鬼は、頭に棺おけのふたをのせたまま、干物(ひもの)のようにひからびてしまいました。 バニアは吸血鬼の服の左がわをきりとると、村へ急ぎました。 そしてグレゴリじいさんの家を見つけると、吸血鬼のいったとおりの方法で、グレゴリじいさんを生き返らせてやりました。 それから村人たちを案内して、ひからびた吸血鬼を見せました。 バニアは、とねりこ(→モクセイ科の落葉小高木)の木の枝をとがらすと、おどろいている村人のまえでグサリと吸血鬼のむねにつきさしました。 「さあ、これでこいつは二度と生き返ることはできません」 吸血鬼をやっつけたバニアに、村人たちは何度も何度もお礼をいいました。
2010年3月15日(月) 08時50分28秒 |
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陸軍の創始者・大村益次郎は、輸入した軍靴が大きすぎるため、日本人の足に合う洋靴(西洋草履)を作る提案をしました。 これにより、1870(明治3)年のこの日、西村勝三が東京・築地入船町に日本初の西洋靴の工場・伊勢勝造靴場を開業しました。
靴に関する昔話
むかしあるところに、まじめなくつ屋がいました。 くつ屋は毎日まじめに働いているのに、だんだんびんぼうになり、とうとう一足分のくつの皮しかのこらなくなりました。 くつ屋は、その最後の皮をくつの形に切っておいて、その日は寝てしまいました。 次の日の朝、目を覚ましたくつ屋はビックリ。 くつが一足、ちゃんとできあがっていたのです。 そのくつはとてもすばらしい出来だったので、とても良いねだんで売れました。 くつ屋はそのお金で、二足分の皮を買いました。 そして、その皮をくつの形に切ったところで、また寝てしまいました。 すると次の日の朝にも、立派なくつが二足できあがっていました。 それから毎日、ずっと同じ事が続きました。 二足が四足になり、四足が八足、八足が十六足、十六足が三十二足・・・と、どんどんくつがふえていったので、くつ屋はすっかりお金持ちになりました。 ある日、くつ屋はおかみさんと一緒に一晩中起きていることにしました。 だれがあのすばらしいくつをつくっているのか、知りたくなったからです。 夜中になると、はだかの小人が二人現れました。 二人の小人は小さな手ですばやく皮をぬい、たたいて形をととのえると、あっと言う間にくつを作り上げました。 おかみさんは言いました。 「くつをつくってくれたおれいに、あのこびとたちに服をぬってあげるわ。はだかじゃさむそうだもの。あなたは小さなくつをつくってあげたら」 くつ屋もそれがいいと言いました。 つぎの夜、いつものくつの皮の代わりに、おかみさんがぬった小さなシャツとズボンとチョッキ、それにくつ下とくつを二足ずつ置いておきました。 すると小人たちは大喜びで服を着て、そこら中を飛びはねながら歌いました。 ♪これで、ぼくらはかわいい小人。 ♪もう、くつ屋じゃなくなっちゃった。 大声で歌ったり踊ったりしながら、外に出て行き、そのまま二度と現れませんでした。 けれども、くつ屋のくつはそれからも飛ぶように売れつづけ、くつ屋はしあわせにくらしました。
2010年3月13日(土) 08時27分40秒 |
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2個の「サン(3)」が「イッチ(1)」を挟んでいることから決められた日です。 サンドイッチの語源は、カードゲーム好きのサンドイッチ伯爵(イギリスの政治家サンドイッチ4世(1718?1792))がゲームをしながら食べられる物として考案されたと一般に言われています。
ですが最近では、「サンド(砂)とウィッチ(魔女)」以外は何でもはさんで食べれる万能メニューと言うのが有力説です
2010年3月12日(金) 08時29分38秒 |
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「さ(3)い(1)ふ(2)」の語呂合わせから、財布の記念日とされています。 業界用語では、二つ折りタイプのサイフを「札入れ」、横長タイプを「束入れ」といいます。 また、昔から財布の中に蛇の抜け殻を入れておくとお金が貯まるといわれています。
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