1872(明治5)年のこの日、「礼服には洋服を採用す」という太政官布告が出されました。
これは、公家・武家、いわゆる裃(かみしも)や束帯(そくたい)などの和式の礼服を廃止し、洋服の使用を促進するというもの。 全日本洋服共同組合連合会が1972(昭和47)年に制定。 洋服に関する昔話 むかしむかし、三人のサギ師がいました。 いつもいつも、じょうずに、うそをついては、人の物をとっていたのです。 あるとき、三人のサギ師は、王さまのところへいって、いいました。 「王さま。わたくしたちは、とてもふしぎな布を、おることができます」 「ほう、どのような布じゃ?」 「ほんとうのむすこには見えますが、にせもののむすこには見えないという、ふしぎな布でございます」 王さまは、びっくりしました。 「ほんとうに、そのような布がおれるのか?」 「はい。ほんとうに、おれます」 王さまは、すっかり感心しました。 そのころ、この国では、おとうさんが死ぬと、そのあとをついで、家や、土地や、お金をもらえるのは、ほんとうのむすこだけ、ということになっていました。 「そういう便利な布があれば、だれがほんとうのむすこか、はっきりわかるわけだ。そして、ずるいにせものを、かんたんに見つけることもできるぞ」 そこで王さまは、三人のサギ師に、金や、銀や、絹をたくさんやって、そのふしぎな布をおらせることにしました。 サギ師たちは、お城の中の一へやに入って、布をおりはじめました。 四、五日たつと、三人はいいました。 「王さま。世界一めずらしい布がだんだん、できてまいりました。一度、ごらんになってください」 (わしは、まちがいなく、まえの王さまの、ほんとうのむすこだ) と、王さまは思っていました。 でも、なんとなく、心配です。 そこで、さきに、いちばんえらい家来を見にやりました。 いちばんえらい家来は、もどってくると、こういいました。 「それはそれはきれいな布が、できかかっておりました」 王さまは、もうひとりの家来を見にやりました。 その家来も、同じようにいいました。 「いままでに見たこともない美しい布が、できかかっております」 「家来たちに見えるのなら、わしにも見えるだろう」 こう思った王さまは、やっと自分で見にいきました。 三人のサギ師は、ねっしんにはたらいているふりをしました。 サギ師たちは、なにもない台の上をゆびさしながら、いいました。 「王さま。まことに美しい色でございましょう」 「・・・?」 王さまには、なにも見えません。 目をこすってみても、やっぱり見えません。 さあ、たいへんです。 このことが人に知れたら、王さまは、前の王さまのほんとうのむすこではないと言われて、王さまをやめなければなりません。 それではこまりますので、王さまは、わざとむねをはって言いました。 「うむ、なかなかに見事じゃ。できあがりをたのしみにしておるぞ」 それから、三日たちました。 王さまは、こんどは、正直者の裁判長に、布を見てくるように、いいつけました。 裁判長が仕事場にはいっていくと、三人のサギ師は、またまたいっしょうけんめい働いているふりをしました。 そして、美しい色や、すばらしいもようを、しきりに説明しました。 けれども、裁判長には、なんにも見えません。 裁判長は青くなりました。 だって、もしも、まえの裁判長のほんとうのむすこでないとすれば、裁判長という、りっぱな役目を、やめさせられてしまいますから。 そこで、王さまの前へもどってきて、 「あれは、わたくしが、いままでに見たなかで、いちばん美しい布でございます」 と、見えない布をほめました。 王さまは、おどろきました。 自分に見えないものが、ほかの人たちには、ちゃんと見えるのです。 王さまは、また、べつの役人に布を見てくるように、いいつけました。 この役人も、 「たしかに、世界でいちばん美しい布でございます。」 こうなっては、王さまもますます、見えるようなふりをしていなければなりません。 「みなの者。もうすぐ、世界でいちばん美しい布が、できあがるぞ」 とうとう、見えない布が、できあがりました。 王さまは、そのふしぎな布で、新しい着物をつくらせました。 そして、お祭りの日に、そのすばらしい着物をきて、町じゅうをまわることにしました。 いよいよ、お祭りの日になりました。 三人のサギ師は、ありもしない着物を、王さまに着せるふりをしました。 それを見て、家来たちは口ぐちにほめました。 「よくお似合いでございます」 「色も、もようも、ほんとに、きれいでございます」 「この様にうつくしい着物は、今まで見たことがありません。さあ、王さま、町の人たちにも見せてやってください」 王さまは、町の人たちの前に出ました。 町の人たちは、王さまを見てビックリ。 どう見ても、パンツ一つしか、はいていないのです。 でも、王さまの着物が見えないといえば、おとうさんのほんとうのこどもでないと思われます。 それで、みんなだまっていました。 そのとき、ひとりのどれいが、王さまの前に進み出て、いいました。 「王さま。わたしは、だれのこどもでもかまいません。わたしの目にうつる、ほんとうのことをいいます。王さまは、はだかで、馬にのっていらっしゃるんです」 「だまれ、だまれ、ばか者!」 と、王さまは、カンカンにおこって、どなりつけました。 しかし、どれいのことばを聞くと、 「王さまは、はだかだ。王さまは、はだかだ」 と、みんながいいはじめました。 王さまも、ようやく三人のサギ師にだまされたことに、気がつきました。 すぐに、家来をやって、三人をつかまえさせようとしました。 ところが、そのときにはもう、三人のサギ師は、金や、銀や、絹を、たくさんもって、にげてしまっていました。 皮膚の日 日本臨床皮膚科医学会が1995(平成7)年に制定。 「いい(11)ひふ(12)」の語呂合せ。 各地で無料相談会や講演会等が行われます。 京都 賃貸よりオススメでした。
乾電池の+(プラス)と?(マイナス)を組み合わせると十一になります。
というわけで、日本乾電池工業会(電池工業会)が1986(昭和61)年に制定しました。 この日を機会に身近な電池や応用機器の点検、いざという時に必要な常備品の見直しを呼びかけています。 介護の日 日本ジュエリー協会が制定。 全国落花生協会が1985(昭和60)年に制定。 日本輸入チーズ普及協会とチーズ普及協議会が1992(平成4)年に制定。 スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・エスポートミズノが制定。 日本靴下協会が1993(平成5)年に制定。
磁気治療器「ピップエレキバン」のピップフジモトが1992(平成4)年に制定。 日本折紙協会が制定。 京都府の西陣織工業組合等西陣織関係の13団体で組織された「西陣の日」事業協議会が制定。 伊豆長岡観光協会が制定。 新潟県村上市が1988(昭和63)年ごろに制定。これとは別に、築地市場の北洋物産会も制定。 食品メーカーの江崎グリコが1999(平成11)年に制定。 煙突の日 もやしの日 箸の日 世界平和記念日 京都 賃貸よりオススメでした。
「11(いい)10(ト)イレ」ということで、日本トイレ協会が1986(昭和61)年に制定しました。
同協会はこの日に「トイレシンポジウム」を開催し、公衆トイレを対象とした「グッドトイレ10賞」や「トイレレポートコンクール」の表彰などを行っています。 トイレ関する昔話 むかし、むかし、上野は、しのばずの池の弁天(べんてん)さまが、ひさしぶりのお開帳(かいちょう→ふだんは見せない物を公開すること)ということになりました。 さあ、ゆうめいな弁天さまのこと。 お堂のある小さな島は、朝早くから日のくれまで、たいへんなにぎわい。 あめ屋に、だんご屋、おもちゃ屋など、小さな出店の客をよぶ声に、チンチンチンと器用に子どもの名前をほりあげる、まい子の札売りまで、そして、ひときわさわがしいのは、四六のガマの油売りに、古着屋のたたき売りに、松井源水(まついげんすい→有名な、こま回し師)のこま回し。 出店から少しはなれたところには、茶屋も、ずらりとならんでいます。 ところが、この島は弁天さまの島ですので、やたらに小便ができません。 これがまことに不便(ふべん)で、とりわけ女の人は、こまりはててしもうた。 これを見て、頭のいい男が、茶店のうらをかりて、貸し便所をつくった。 ひとりがつかうたんびに、五文(百五十円ほど)ずつとるので、たいへんなもうけです。 太郎作(たろうさく)は、客のたえない便所を見て、 「なるほど。こいつあ、うまい思いつきだ」 すっかり感心して、 「よし。おれも便所をつくって、ひともうけしよう」 と、さっそく家に帰って、女房にそうだんすると、 「一けんできたあとだもの。いまさらたてたところで、はやりっこないよ」 と、はんたいします。 「なあに、そんなことがあるもんか」 と、太郎作は、女房をむりやりときふせて、いまある便所のすぐとなりに、新しいやつをたてました。 ところが、太郎作の便所は、たてたそのときから、大はんじょう。 お客がずらりとならんで、じゅんばんを待たねばならないというありさま。 それにくらべて、はじめからあるとなりの便所ヘは、入るものがひとりもいません。 夕方になると、太郎作夫婦は、おもい銭箱(ぜにばこ)をかついで、家に帰ってきた。 「どうだい、女房。やっぱり、おれのいったとおりだろう」 と、太郎作は、鼻たかだかです。 女房は、いかにもふしぎそうに、 「それにしても、どうしてまあ、うちのほうばっかりに、人がくるんでしょうねえ?」 と、たずねれば、太郎作は、すました顔で、 「じつはな。ちっと、頭をつかった」 「あれ、おまえさんがかい?」 「そんなに、ふしぎがることはない。なに、となりの便所には、おれが一日中、入っていたんだ」 エレベーターの日 ユースキン製薬が2000(平成12)年に制定。 日本肢体不自由児協会の主唱で1953(昭和28)年から実施。 労働省(現在の厚生労働省)が1971(昭和46)年に制定。 京都 賃貸よりオススメでした。
1895(明治28)年11月8日にドイツの物理学者レントゲンが発見したX線は、身体を傷つけることなく身体の中を見ることができるというものでした。
X線は上や服などは透過し、骨などは透過しにくいため、レントゲン写真が生まれました。 いい歯の日 たぬき休むでぇ?(day) 滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会が制定。 岐阜県関市・岐阜県関刃物産業連合会・新潟三条庖丁連・越前打破物協同組合・東京刃物工業協同組合・京都利器工具組合・高知土佐山田商工会・島根県吉田村・堺刃物商工業協同組合連合会が制定。 京都 賃貸よりオススメでした。
食品メーカー・ヤマキが制定。
この日が立冬になることが多いことから。 雪に関する昔話 むかし、冬がきて寒くなると、雪のかわりに空から、お砂糖や小麦粉の降ってくる村が中国にありました。 その村では、初めの日に小麦粉が降ってくると、そのつぎの日は、お砂糖がたくさん降ってくるのです。 お砂糖と小麦粉が、かわりばんこに空から降ってくる、そんな日が、十日も十五日も続くのです。 「やあ、今年も降ってきたぞ、白い粉が」 小麦粉の白い粉が降りだすと、村の人たちは、おけや水がめや、そのほか、いろんな入れ物を持ち出して、せっせと粉を集めます。 そしてそれを袋に入れて、大きな蔵に、いっぱい粉の入った袋をつめこみます。 「やあ、きょうは、甘い砂糖だぞ」 お砂糖も、小麦粉と同じで、砂や土がまじらないように、きれいに集めておきます。 こうして、一年分のお砂糖と小麦粉をたくわえてしまうと、村の人たちは、遊んで暮らせばいいのです。 「やあ、けっこう、けっこう。今年も働かなくていいわけだ」 「ほんとうにありがたいねえ。毎日、寝ころがっていればいいんだから」 村の人たちは、ほかの村の様に、畑を耕して麦や豆をつくろうとしません。 おなかがすいたら、おだんごや、砂糖菓子をつくって食ベればいいわけですから。 しあわせなことに、毎年毎年、冬になると、お砂糖も小麦粉も、じゅうぶんに空から降ってきました。 ところが、前の年の小麦粉やお砂糖が、蔵にたくさん残っているうえに、今年の分が集まるものですから、入れる所がなくて、はみ出してしまいます。 そうなると、村の人たちの心の中に、ありがたいという気持ちなどは、すっかりなくなって、小麦粉やお砂糖を、そまつにするようになりました。 子どもたちまで、小麦粉をおだんごにして、石のように投げてみたり、池にお砂糖を流して遊んだりしました。 やがて、今年も冬がやってきました。 けれども、村の人たちは、空からの贈り物を待ってはいません。 もう、あり余るほど、前の年の分が残っていたからです。 そのうちに、また、白い粉が降ってきました。 みるみるうちに、あたり一面、まっ白に積もりました。 そのとき、外で遊んでいた子どもたちが、奇妙な叫び声をあげました。 「あれー! 砂糖じゃないぞー!」 「小麦粉でもないぞー!」 「冷たい、冷たい、冷たい!」 「口の中へ入れたら、とけてなくなるよー!」 驚いて、おとなたちも外へ飛び出してきました。 「ほんとうだ。冷たくて、口に入れると、とけてしまうぞ!」 空から降ってきた白い粉、それは、お砂糖でもない、小麦粉でもない、ふつうの雪だったのです。 そして、そのつぎの年も、またつぎの年も、もうお砂糖や小麦粉は、けっして降ってきませんでした。 たくわえてあったお砂糖や小麦粉もついになくなり、すっかりなまけ者になってしまった人たちは、たいへん困ったということです。 知恵の日 一年を24に分けて季節を表す二十四節気の一つが立冬です。 ロシア革命記念日 (ソビエト連邦) 京都 賃貸よりオススメでした。 |
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