江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、この日を「御城将棋の日」とし、年に1回の御前対局を制度化しました。
これを記念日として日本将棋連盟が1975(昭和50)年に制定しました。 吉宗は1716(享保元)年から1745(延享2)年までの30年間在位しており、「享保の改革」で有名。 将棋に関する昔話 横町のいんきょと、表通りのいんきょが、二人で将棋をさしています。 どうやら横町のいんきょのほうが、二回続けて負けて、この三回めも負けそうです。 「待った、待った」 横町のいんきょが待ったをすると、 「いや、待てぬ。これで二回も待ったをしたのだ、もう、だめだ」 と、表通りのいんきょは、冷たくいいます。 「もう、一度だけだ、たのむ」 「いいや、だめだ」 「そこを何とか、たのむ」 「だめだったら、だめだ」 しまいには、 「なにをー!」 「なにぃー!」 と、いって、将棋盤(しょうぎばん)をひっくりかえすしまつ。 「もうおまえとは、一生、将棋はささんぞ」 おこって、別れてしまいました。 ところが、ふたりとも、その日の夕方にもなりますと、なんとなくそわそわ。 「あのとき、待ったをしてやりゃあよかった」 「あのとき、すなおに負けを認めていれば、いまごろは、酒をくみかわして・・・」 と、しきりに、けんかをしたことがくやまれてなりません。 そこで、横町のいんきょは、何とか、なかなおりの方法はないものかと、表通りまでやってきますと、表通りのいんきょも、そわそわ、そわそわと、門を出たり入ったりしております。 二人は、ばったりと目があうと、つい、 「さっきのは、おまえがわるいんだぞ!」 もういっぽうも負けずに、 「いいや、おまえがわるいんだ!」 「では、どっちがわるいか、将棋できめよう」 「おお、将棋で決着をつけるぞ!」 と、いってあがりこみ、さっそく将棋盤をかこんで、さし始めました。 将棋好きの人は、だいたいがこんなものです。 ドラフト記念日 蓮根の日 京都 賃貸よりオススメでした。
1875(明治8)年、東京の御茶ノ水(湯島1丁目)に東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が開校しました。
そして1876(明治9)年のこの日、東京女子師範学校の構内に附属幼稚園が開園しました。 これが日本初の幼稚園です。 入園したのは当時の上流家庭の幼児50人ほどでした。 他の記念日 いいいろ塗装の日 日本塗装工業会が、創立50周年をむかえる1998(平成10)年に制定。 「いい(11)色(16)」の語呂合せ。 いいいろの日 愛知県の塗装・塗料に関する事業の業界団体「愛知昭和会」が1991(平成3)年に制定。 「いい(11)色(16)」の語呂合せ。 録音文化の日 日本記録メディア工業会が制定。 自然薯の日 静岡県熱海市の自然薯料理店が制定。 6を「も」の字に見立て、「11(いい)16(いも)」の語呂合せ。 国際寛容デー 1996(平成8)年12月12日の国連総会で制定。国際デーの一つ。 1995(平成7)年、ユネスコ総会で「寛容原則宣言」と「国連寛容年のためのフォローアップ計画」が採択されました 京都 賃貸よりオススメでした。
全国遊技共同組合連合会が1979(昭和54)年に制定しました。
1966年のこの日に同会が発足したことを記念しています。 また、1930年のこの日に名古屋でパチンコ店第1号の営業が許可されています。 他の記念日 いい石の日 山梨県石材加工業協同組合が1999(平成11)年に制定。 「いい(11)石(14)」の語呂合せと、石工職人が尊ぶ聖徳太子の命日であるこの日を「太子講」としていたことから。 いい樹脂の日 中部日本プラスチック製品工業会が制定。 「いい(11)じゅし(14)」の語呂合せ。 盛人の日 日本ベテランズ倶楽部が2001(平成13)年に制定。 「いい(11)とし(14)」の語呂合せ。 アンチエイジングの日 NPO法人アンチエイジングネットワークが制定。 「いい(11)とし(14)」の語呂合せ。 埼玉県民の日 埼玉県が1971(昭和46)年に制定。 1871(明治4)年、廃藩置県によって埼玉県が誕生しました。 1871(明治4)年に埼玉県と入間県が誕生し、1873(明治6)年に入間県は群馬県と合併して熊谷県となりましたが、1876(明治9)年に熊谷県の一部が埼玉県と合併して、現在の県域となりました。 大分県民の日 「大分県あすをつくる県民運動推進協議会総会」で決議。 1871年(明治4)、廃藩置県によって大分県という名称が初めて使われました。 ウーマンリブの日 1970(昭和45)年、東京・渋谷で女性解放運動を高めるための日本初のウーマンリブの大会が開催されました。 京都 賃貸よりオススメでした。
文徳(もんとく)天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が京都・嵐山の法輪寺に参篭し、虚空蔵菩薩からうるしの製法、漆器の製造法を伝授されたのがこの日であるとされていることから、1985(昭和60)年に日本漆工協会が制定しました。
日本の伝統文化であるうるしの美しさを今一度見直して日本の心を呼び戻すことを目的にしています うるしに関する昔話 むかしむかし、宇都宮(うつのみや)に、うるし商人の武太夫(たけだゆう)という男がいました。
武太夫は大金持ちでしたが、それにはわけがありました。 数年前のある日、山奥の谷川のふちの底に、大量のうるしを見つけたのです。 うるしは、うるしの木の皮から取れる汁で、おわんなどのぬり物につかわれます。 そのうるしが長いあいだ水に運ばれて、ふちの底にたまったのです。 うるしは高価な物で、無断で取ることを禁じられていましたが、武太夫はこの谷川の底のうるしを少しずつ売り、大金持ちになったのです。 武太夫は秘密のうるしを、いつまでも自分だけのものにしておきたいと思いました。 それで腕の良い細工師(さいくし)に、恐ろしい竜の細工をつくらせて、人が怖がってよりつかないように、うるしのあるふちの底に沈めたのでした。 しばらくすると竜の細工は、上流から流れてくるうるしや水あかなどがついて、本物の竜のようになっていました。 ある時、武太夫は十四歳になる一人息子の武助(たけすけ)を連れて、山奥のふちへいきました。 そして、うるしの秘密を話すと、 「このうるしは、わしらだけのものじゃ。わざわざ木を切りつけて汁を取らなくても、いくらでもここへたまっておる。いいか、わしがするのをよく見て、うるし取りの練習をするんだぞ」 武太夫は息子にいいきかせて、親子でふちへ入っていきました。 すると竜の細工が、とつぜん頭を動かしたのです。 「おとう! 竜が! 竜が動いた!」 「何を馬鹿な。水の動きで、そう見えるだけだ」 と、 武太夫は言ったものの、見てみると、竜が大きな口を開けて、息子に襲いかかったのです。 細工の竜は水の中にいるうちに魂が入って、いつしか本物の竜になっていたのです。 あわてた武太夫は息子を助けようとしましたが、竜が相手ではどうにもなりません。 「武助ー!」 「おとうー!」 やがてふちの水の上に、二つの死体が浮かびあがって下流へ流れていきました。 二人の死体は二日目になって、村に近い川原で引き上げられました。 取り調べの結果、武太夫はうるしの盗み取りをしていたことがわかりました。 そして罰(ばつ)として、新しく建てたばかりの家や財産は、全て取り上げられてしまったのです。 あとに残された武太夫の父親と奥さんは、とても貧しい生活を送ったという事です。 京都 賃貸よりオススメでした。
「11(いい)10(ト)イレ」ということで、日本トイレ協会が1986(昭和61)年に制定しました。
同協会はこの日に「トイレシンポジウム」を開催し、公衆トイレを対象とした「グッドトイレ10賞」や「トイレレポートコンクール」の表彰などを行っています。 トイレ関する昔話 むかし、むかし、上野は、しのばずの池の弁天(べんてん)さまが、ひさしぶりのお開帳(かいちょう→ふだんは見せない物を公開すること)ということになりました。 京都 賃貸よりオススメでした。
|
|