1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉が「奥の細道」への一歩を踏み出した日です。
せわしない現代生活の中で、「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直そうと、日本旅のペンクラブ(旅ペン)が1988(昭和63)年に制定しました。 観光業界の将来など旅について考える活動をしています。 旅に関する昔話 むかしむかし、オランダの海ぞいに、それはそれはにぎやかな町がありました。 毎日たくさんの荷物をつんだ船が、出たり入ったりしています。 お金持の人も、おおぜい住んでいました。 その中でも一番のお金持は、ある、わかいおくさんでした。 このおくさんは、ご主人がなくなってからは、一人でくらしていました。 美しい人でしたが、ただこまったことに、たいへんうぬぼれがつよかったのです。 おくさんは、たくさんの船を持っていました。 住んでいる家も、町で一番大きくてりっぱな家でした。 家のかべには、すばらしい絵がかかっています。 家中にしいているじゅうたんも、とても上等なものでした。 食事のときには、金と銀のお皿で食べるのです。 ある日、おくさんは年とった船長をよんで、 「あなたは、これから世界じゅうをまわってきてください。わたしの船をみんなつれてね。そして、あなたが世界一美しいと思ったもの、世界一とうとい思ったものを持ってきてください。でも、一年したらかならず帰ってきてくださいよ」 と、いいました。 船長はすぐに、世界一周の旅にでました。 町の人びとは、それからというもの、 「あの船長は、どんな宝ものを持ってくるだろう?」 と、そればかりはなしあっていました。 一年がたちました。 ある日、見はりのものが、 「船が帰ってくるぞー!」 と、さけびました。 町じゅうの人びとが、船つき場に集まりました。 わかいおくさんも、むかえにでてきました。 人びとは、おくさんのために、うやうやしく場所をあけました。 美しいおくさんの目は、ギラギラとひかっていました。 船長が、どんな宝ものを持ってきたか、はやく見たくてたまらなかったのです。 しらが頭の船長は、ボウシを手にして、おくさんの前にすすみでました。 「おくさま、ただいまもどりました」 「あいさつはいいわ。それで、なにを見つけてきてくれましたか?」 「はい。ながいながいあいだ、わたくしは、世界中を旅して、いろいろな宝ものを見ました。しかし、どれもこれも世界一美しいもの、世界一とうといものとは思われませんでした。わたくしは、もうすこしであきらめてしまうところでした」 と、船長はさらに、はなしつづけました。 「ところが、バルト海のある港にはいっていったときのことでございます。穀物(こくもつ)畑が見わたすかぎり、ひろびろとひろがっておりました。ムギの穂(ほ)は、風をうけて波のようにゆれていました。太陽はあたりいちめんに、こがね色の光を投げていました。これを見たとたん、わたくしは穀物(こくもつ)こそ、わたくしたちのまいにちのパンをつくる穀物こそ、世界一美しいもの、世界一とうといものだと思いました。そこで、船いっぱいに小麦をつんでまいりました」 「なんだって!」 おくさんは、まっかになっておこりました。 「穀物を持ってきたって。バカ! トンマ! そんなことのために、一年も世界を歩きまわったのかい」 船長は、しずかにこたえました。 「はい。わたくしは一年かかって、ようやく、世界でいちばんたいせつなものは、穀物であることに気がつきました。神さまが、こがね色に波うたせている、あの穀物でございます。あれがなくては、わたくしたちがまいにちたべるパンもつくれません」 「ええい。そんなものは、海にすてておしまい!」 と、おくさんはどなりました。 「それから船長、おまえもいっておしまい。おまえは首にします。おまえの顔なんか、もう二度と見たくない!」 船長はだまって、どこかへいってしまいました。 船乗りたちは、穀物を海にすてはじめました。 そのときとつぜん、やせたしらが頭のおじいさんが、おくさんの前にすすみでました。 おじいさんは片手をあげて、ひくいけれども、あたりの人にもハッキリと聞こえる声でいいました。 「気をつけなさい。神さまからのいちばんとうといおくりものをすてたりすれば、かならずバチがあたる。よく考えてみなさい。世の中には食べ物がなくて、腹をすかしている貧乏人も、おおぜいいるのだ。お まえさんだって、いつ貧乏になるかもしれない。気をつけなさい」 美しいおくさんはカラカラと笑って、自分の指から、世にもすばらしい宝石のついた指輪をぬきとりました。 そしていきなり、それを海の中に投げこんでしまいました。 「ふん! 海はこの指輪を、わたしにかえしてはくれないでしょう。でもわたしは、貧乏にはなりませんよ。さあ、さっさと荷物をすてておしまい」 こうさけぶと、おくさんは頭を高くあげ、胸をそらせて帰っていきました。 しばらくして美しいおくさんは、大きなパーティーを開きました。 そのあたりのお金持の人たちは、のこらず集まってきました。 宝石はピカピカとかがやき、絹の衣装はキラキラと光りました。 みんなは、飲んだりたべたり、大さわぎをはじめました。 そのとき、一人のめしつかいが、大きなお皿をはこんできました。 お皿には、大きな大きなさかなの丸あげが乗せてありました。 おくさんはさっそく、さかなを切りはじめました。 ところが、ひときれ切ったとたん、ビックリして、 「あっ!」 と、さけんだのです。 みんな、お皿のまわりに集まってきて、さかなを見つめました。 だれもかれも、あっけにとられて口もきけません。 さかなのおなかの中には、指輪がキラキラ光っていたのです。 しばらく前に、おくさんが海の中に投げこんだ、あの指輪だったのです。 海が指輪を、おくさんにかえしたのです。 あくる朝、おくさんの船があらしにあって、みんなしずんだという知らせがとどきました。 でも、これはほんのはじまりで、不幸せなことはつぎからつぎへとつづいて、おくさんはどんどん貧乏になりました。 こうして、一年がたったときには、わかくて美しくてうぬぼれやのおくさんも、とうとうこじきになってしまったのです。 おくさんのいた町もさびしくなって、いつのまにかなくなってしまいました。 穀物の投げこまれた船つき場のあたりは、いまは砂でうまっています。 もうここには、一そうの船もやってきません。 一年たつと、そこにムギ畑ができました。 けれども、この畑のムギの穂は、中がからっぽでした。 京都 賃貸よりオススメでした。
1900年代初め、ヨーグルトを世界中の人々に紹介し、健康のため毎日の食卓に欠かせない物だと主張したロシア生まれの生物学者イリア・イリノイッチ・メチニコフの誕生日を記念して明治乳業が制定しました。
メチニコフは免疫に関する研究でノーベル生理・医学賞を受賞しています。 他の記念日 5.15事件記念日 1940(昭和15)年、アメリカのデュポン社がナイロン・ストッキングを全米で発売しました。 聖ソフィアは天候の変化を気遣うやさしい聖女として信仰されています。 京都 賃貸よりオススメでした。
1686(貞享3)年のこの日、華氏温度目盛り(°F)を定めたドイツの物理学者ファーレンハイトが誕生しました。
華氏温度はアメリカなどで使われています。 華氏温度(°F)を摂氏温度(℃)に換算する公式は、C=5(F?32)÷9です。 温度に関する昔話 ある店で、田舎から出てきたばかりの男をやといました。 主人は、仕事をいろいろとおしえ、客へのあいさつは、とくにていねいにするようにと、おしえました。 あるとき、越前の国(えちぜんのくに→福井県)から客がやってまいりました。 男は、さっそく、客の前へ出ると、 「これはこれは。お寒い時分(じぶん)に、ようおいでなさいました。今年は、こちらも雪がおおく、お国もこの分では、さぞかし大雪でございましょう」 と、あいさつをすると、 「よしよし。よいあいさつができたな。これからも、そのちょうしでな」 主人に大そうほめられました。 それから半年たった夏に、また、越前からこの前の客がやってまいりました。 男はさっそく、 「これはこれは。おあつい時分に、ようおいでなされました。今年は、こちらもひどいあつさでございます。お国も、この分では、大火事でございましょう」 他の記念日 種痘(しゅとう)記念日 京都 賃貸よりオススメでした。
毎年この日、岐阜県・長良川で「鵜飼い開き」が行われます。
松明の非でアユをおびき寄せ、飼い慣らした鵜を使ってそれを捕る、古式漁法の初日です。鵜飼いは10月15日まで連夜行われます。 ただし、満月の日は除外されます。 他の記念日 大津事件記念日 1891(明治24)年のこの日、滋賀県大津で、来日中のロシアのニコライ皇太子が、沿道警備中の巡査津田三蔵に切りつけられる「大津事件」がありました。 政府は、日露関係の悪化を恐れ、犯人に刑法116条「天皇、三后、皇太子に対し危害を加え、また加えんとしたものは死刑に処す」という「大逆罪」を適用しようとしました。 しかし大審院の児島惟謙院長は、「刑法に外国皇族に関する規定はない」とし、普通人に対する謀殺未遂罪を適用して無期徒刑の判決を下しました。 これにより司法の独立が守られ、国際的には日本の司法権に対する信頼を高めることとなったのです 京都 賃貸よりオススメでした。
気象庁の外郭団体である気象協会が1950(昭和25)年のこの日に設立され、業務を開始しました。
NHKテレビへの天気図、解説図などの提供、177天気予報サービスなどを経て、1966(昭和41)年4月、日本気象協会として統合されました。 他の記念日 リプトンの日 日本紡績協会が1995(平成7)年10月に制定。 京都 賃貸よりオススメでした。 |
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