ひな祭りとは、平安時代の京都の風習だった子供の無病息災を願う上巳の節句(じょうみのせっく)と、ままごとの遊びが江戸時代初期に融合し、女の子のお祭りになったといわれています。
ひな祭りという呼び名は、小さな人形で「ままごと遊び」することを「ひいな遊び」と呼んでいたのが語源です。 はじめは京都の上流階級の家だけの行事でしたが、しだいに民間の行事となり、やがては地方へとひろまっていきます。 ひな祭りは江戸時代中期にかけて年々盛んになり、人形やひな壇もどんどん派手になっていきました。 当時は等身大の人形をかざったひな壇もあったといいます。 ですが、1721年(享保6)に、ぜいたくな生活を規制する当時の江戸幕府によって、ひな人形の大きさは24cm以下とさだめられました。 ひな祭りのことを別名で「モモの節句」といいますが、それは当時の旧暦の3月3日は、現在の4月上旬にあたり、ちょうどモモの花も開くころだったからです。 また江戸時代、ひな祭りの日には、銭湯でモモの葉をお風呂に入れた「桃の湯」に入るのが流行していました。 昔話の桃太郎が鬼を退治するように、植物のモモには災いをおいはらう効能があると信じられていたからです。 みなさんも、ひな祭りにはモモの入浴剤で「桃の湯」を楽しんではいかがでしょうか。 桃の節句に関する昔話 むかしむかし、ある村に、おばあさんと美しい娘が二人でくらしていました。 ある年の田植えの季節に、おばあさんは町へ買いものにでかけました。 帰りに田んぼのあぜ道を歩いていると、ヘビがカエルを追いつめて、今にものみこもうとしています。 「これこれ、なにをする。ゆるしておやり。ほしいものがあれば、わしがやるから」 カエルをかわいそうに思っておばあさんがいうと、ヘビはおばあさんの顔を見あげながらいいました。 「それなら、娘をわしの嫁にくれるか?」 おばあさんは、ヘビの言うことなどとあまり気にもとめずに、 「よしよし。わかったから、カエルを逃がしてやるんだよ」 と、返事をしてしまったのです。 すると、その年の秋もふかまったころ、若い侍(さむらい)が毎晩、娘の部屋へやってきて、夜がふけるまで娘と楽しそうに話していくようになったのです。 そんなある日の事、一人の易者(えきしゃ)が家の前を通りました。 おばあさんは易者を呼びとめると、娘にはないしょで、毎晩のようにやってくる若い侍の事をうらなってもらいました。 すると易者は、こんなことをいいました。 「ほほう。その若い侍の正体はヘビじゃ。ほうっておくと、娘の命はなくなる。娘を救いたいのなら、裏山の松の木にワシが卵をうんでおるから、その卵を侍にとってもらって、娘に食べさせるんじゃな」 おばあさんはビックリして、この話を娘にしました。 娘もおどろいて、その晩やってきた若い侍にいいました。 「実は最近、とても体がだるいのです。元気をつけるために、裏山の松の木に巣をつくっているワシの卵をとってきて食べさせてくださいな」 「よしよし、そんなことはたやすいことよ」 次の日、若い侍は裏山へいって、ワシの巣がある高い木にのぼっていきましたが、そのときいつのまにか、若い侍はヘビの姿になっていたのです。 そして木をよじのぼって、巣の中にある卵を口にくわえたとたん、親ワシがもどってきました。 親ワシはするどいくちばしで、大事な卵をくわえたヘビを何度もつつきました。 そしてヘビは頭を食いちぎられ、血だらけになって木から落ちていきました。 そのころ、あの易者がまたおばあさんの前に現われると、おばあさんに頭を下げていいました。 「実はわたしは、いつぞや田んぼのあぜ道で命をすくわれたカエルなのです。娘さんの体には、まだヘビの毒が残っております。これからは毎年、三月三日の節 句(せっく)にお酒の中に桃の花びらを浮かべてお飲みください。そうすればヘビの毒ばかりではなく、からだにたまったどんな毒もみんな消えて、きれいにな りますから」 そういうと目の前の易者の姿はたちまち消えてしまい、一匹のカエルが庭先の草むらの中へ、ピョンピョンと飛んでいったのです。 桃の節句で、お酒の中に桃の花びらを浮かべて飲むようになったのは、このときからだという事です。 京都 賃貸よりオススメでした。
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