1607(慶長12)年のこの日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露しました。 1603(慶長8)年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。 四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となりました
歌舞伎にある昔話いまから、およそ八百年ほどまえのお話です。 京都のはずれの山の中、はげしいふぶきの中をいそぐ母と子のすがたがありました。 おさない子ども二人と、そして母のむねには、いま一人、乳飲み子がだかれておりました。 そのころ、さむらいたちの二大勢力、源氏と平氏は、各地ではげしくたたかい、源氏の総大将、源義朝(みなもとのよしとも)は、ついに平氏の手によってたおされてしまいました。 義朝のつま、ときわは、まだおさない今若、乙若、そして牛若の三人の子をつれ、なんとか平氏の手のとどかないところへにげようとしたのです。 でも、とうとう平氏の武士たちに発見され、とらえられて、平清盛(たいらのきよもり)の前につれだされたのでした。 清盛は、おさない子が、源氏の大将義朝の子であることを知ると、すぐに首をはねるようにと命じました。 ところが、「わたしの命はいりませぬ。そのかわり、どうかこの子たちの命だけはお助けくださいませ」という、ときわのひっしのたのみに、心をうごかされた清盛は、子どもたちの命を助けることにしました。 そのかわり、七さいの今若、五さいの乙若はすぐに寺へ、そして牛若も、七さいになったらかならず寺ヘ入れるよう、母のときわにやくそくさせたのでした。 年月はまたたくまにすぎ、やがて清盛とのやくそくをはたさねばならないときがきました。「牛若、そなたはもう七さい。寺に入って、りっぱなおぼうさまにならなければなりませぬ」「お母さま!」 こうして、七さいになったばかりの牛若は、やさしい母にわかれをつげなければならなかったのです。「さびしいときは、お父さまが大切にしていた、このよこぶえをふきなさい」 牛若丸があずけられた寺は、くらまの山の中、うっそうとしげる木立の中にある、くらま寺でした。 牛若丸のきびしい修行生活がはじまりました。 あるとき、牛若丸が一人で勉強していますと、どこからか、牛若丸をよぶ声がします。「わかさま、わかさま」「わたしをよぶのは、だれじゃ?」 牛若丸がきょろきょろとあたりを見まわすと、見知らぬぼうずがすわっておりました。「わかさま、お目にかかれてうれしゅうございます。わたしは鎌田正近と申す旅の僧。わかさま、よくお聞きくださいませ。あなたさまは、平氏にほろぼされた源氏の総大将、源義朝公のお子さまですぞ!」「えっ、わたしがっ!」「そうです、わたしも義朝公におつかえした身、義朝公は、清盛の手によってころされたのです。あなたさまは、父ぎみのかたきをうち、おごる平家をこらしめなければなりません。そして、源氏一門をたてなおさなければなりませんぞ!」 なにもかも、はじめて聞く話でした。 牛若丸は、山の中へ走りこんで、一人でなみだを流しました。 それは、おさない牛若丸が一人でせおいこむには、あまりにも重い運命でした。 そんな牛若丸を見ている、一人のテングがおりました。 そのテングは、ひらりと高い木からとびおりると、牛若丸のそばに立ちました。「立て、小僧! 男の子がいつまでないておる。さあ、わしについてこい」 いうが早いか、テングはあっというまにすがたをけしてしまいました。「あれ、どこいっちまったんだろう?」 見ると、そばの木に太刀(たち)がたてかけてあります。「よし、テングのやつ、これでとっちめてやる」 太刀を持って木立の中をすすむ牛若丸の頭を、コツンとだれかがたたきました。「いたい。だれだ!」 頭をかかえてふりむくと、またも、コツン。 また、コツン。「わっはっはっは。小憎、それでは太刀があってもなんにもなりはせんぞ。それそれ、ぐずぐずしておると、またやられるぞ」 牛若丸は、あわてて太刀をひろい、こんどはしっかり目をすえて、身がまえておりました。 なにやらみょうなかげが、あっちへ、こっちへとびかいます。 よく見ると、たくさんのカラステングが、グルッと牛若丸のまわりをとりかこんでいました。「な、なにものっ!」 テングたちは、牛若丸におそいかかります。 負けてはならじと、太刀をふりまわす牛若丸。 でも牛若丸は、かないっこありません。 あちらこちら、めったやたらなぐられてしまいました。 これではならじと牛若丸は、昼なお暗いくらまの山中で、もくもくと剣の修行にはげんだのです。「それっ! 右だ! 左だ! 走れ! とべ! まわれ!」 テングのしどうで、牛若丸の剣のうではみるみるじょうたつしました。 それから何日かすぎた、ある月のかがやくばん。「きえ?っ!」 するどく切りこんできた、カラステングの太刀を、牛若丸は、ハッと打ちとめると、かえす刀ではげしくテングに打ちこんだのです。「やった! やった! とうとうテングをたおしたぞ!」 牛若丸の剣のうでは、とうとうテングをたおすまでになりました。 その日いらい、もう牛若丸にかなうテングは一人もいなくなりました。 そんなある日、テングが牛若丸にこういうのです。「わかさま、わたしどもがお教えすることは、もうなにもありません。このうえは、りっぱなおさむらいになられますよう」 そのテングたちも、源氏のことを思う義朝の家臣であったのかどうか。 くらま山で剣をならった牛若丸は、十五の年に、くらま寺からそっとすがたをけしたということです。 さて、ところかわってこちらは京都。 そのころ都では、夜な夜な、怪僧弁慶(かいそうべんけい)なる者がすがたをあらわし、通行人の刀をうばっては、これを一千本あつめる祈願(きがん)をたてているといううわさで、おそれられていました。 そして今夜が、その一千本めの日でありました。 ここは、五条大橋。 どこからともなく聞こえてくる、すんだふえの音。 ふえをふいているのは、あの牛若丸でした。「なんじゃ、子どもか。子どもに用はないわい」と、いった弁慶でしたが、牛若丸のこしにさした太刀を見たとたん、「うむ、みごとな太刀じゃあ。この太刀なら、一千本めにふさわしい」と、なぎなたを高くかかげ、牛若丸の前に立ちはだかりました。「やいやい、その太刀、おいていけ!」 ところが、牛若丸は、弁慶のそばをスルリと通りぬけていきます。「ぬぬ、よし、わしのなぎなたを受けてみよ、それ!」 弁慶は、なぎなたをふりまわします。 牛若丸は、ヒラリヒラリとかわしてしまいます。 ここと思えばあちら、あちらと思えばまたそちら。 牛若丸は、ヒョイととびあがりながら、手に持ったおうぎを投げました。 おうぎは弁慶のひたいにあたり、弁慶はひっくりかえってしまったのです。「ま、まいりました!」 さしもの弁慶も、ガックリひざをついてあやまりました。 弁慶は、このときから牛若丸の家来となって、いつまでも牛若丸につかえました。 牛若丸は、のちに源九郎義経(げんくろうよしつね)となのって、兄の頼朝(よりとも)と力をあわせ、ついには壇ノ浦の戦いで、平氏をたおすことができたのです。
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