1879(明治12)年のこの日、工学会(日本工学会)が設立されました。 また、「土木」という文字を分解すると「十一」と「十八」になることから、土木学会、日本土木工業協会などが建設省(国土交通省)の支援で、1987(昭和62)年に記念日に制定しました。
土木に関する昔話むかし、飛騨(ひだ→岐阜県)の山おくに、佐吉(さきち)という、彫り物のとてもじょうずな男がすんでいました。 あるとき、佐吉はうでだめしをしようと、旅に出かけました。 ところが、尾張(おわり→愛知県)の国まできたときには、持っていた旅費をすっかり使いはたしてしまいました。 宿の支払いにもこまった佐吉は、宿の主人になにか彫り物をさせてほしいとたのみました。「よし、それじゃ、宿代のかわりに、なにか彫っておくんなさい」 主人がゆるしてくれたので、佐吉はさっそく彫りはじめました。 よく朝、佐吉はみごとな大黒さまを宿の主人に差し出しました。「ほほう。これは見事。こんなすばらしい大黒さまは見たことがない。これは、家の家宝にさせていただきます」 大喜びする宿の主人に、佐吉は申し訳なさそうに。「彫る木が手元になかったもので、このへやの大黒柱(だいこくばしら)をくりぬいて使わせてもらいました。おゆるしください」「・・・?」 宿の主人が大黒柱を調べてみましたが、きずひとつ見当たりません。「はて、この大黒柱でしょうか?」 「はい。これです」 そういって、佐吉がポンと手をたたくと、カタンと、柱の木がはずれました。 なるほど、たしかに中は空洞です。 すっかり感心した宿の主人は、佐吉のことを、そのころ日光東照宮(にっこうとうしょうぐう→詳細)の造営(ぞうえい→建物を建築すること)にたずさわっていた彫り物名人、左甚五郎(ひだりじんごろう)に知らせました。 甚五郎は、さっそく佐吉をよびよせ、「おまえのとくいなものを見せてくれ」と、いいました。 そこで佐吉が彫ったのは、いまにも動きだしそうなみごとな仁王(におう)さまです。 甚五郎はすっかり感心して、佐吉を東照宮の造営に参加させることにしました。「わたしは、りゅうを彫ろう。佐吉、おまえは山門のねこを彫れ」 左甚五郎にみとめられたうれしさに、佐吉は力いっぱい彫りつづけました。 毎日毎日、彫りつづけ、とうとう山門のねこがほりあがりました。 そして、甚五郎やほかの弟子たちの仕事もすべておわり、東照宮は完成しました。 検査の役人たちも、そのみごとさには、ただおどろくばかりです。 甚五郎をはじめ、みんなは、たいそういい気分になり、その夜は酒やごちそうでおいわいしました。 酒を飲み、歌い、もりあがったみんなは、疲れていたのか、たくさんのごちそうを残したまま、グーグーと、ねむってしまいました。 ところがそのよく朝、みんなが目ざめてみるとどうでしょう。 あれほどたくさんあったごちそうが、一ばんのうちになくなっているのでした。「おまえが食べたんじゃろうが!」「とんでもない、おまえこそ!」 弟子たちのいいあらそいを聞くうちに、甚五郎と佐吉は、はっと顔を見合わせました。 甚五郎は、のみと木づちを持ち、山門へといそぎました。 佐吉もだまって、あとを追います。 山門へきてみると、佐吉の彫ったねこのまわりに、ごちそうを食いちらしたあとがあります。 甚五郎は、クワッと目を見開き、カーンと、のみと木づちをふるいました。 その一刀のもとに、佐吉のねこはねむりねこになってしまいました。 佐吉は、甚五郎のうでのあまりのすごさに、思わず地面にひれふしました。「左甚五郎先生!」 甚五郎は、佐吉のかたに手をおき、しみじみといいました。「佐吉よ、彫り物のねこにたましいが入るとは、おまえはまことの名人じゃ。これより、わしの名をとって、飛騨の甚五郎と名のるがよい」「はいっ、ありがとうございます!」 佐吉の彫ったねこは、そのあと、「日光東照宮のねむりねこ」として、とてもひょうばんになりました。 それにつれて、飛騨の甚五郎の名まえも、たいへん有名になったということです。
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