2010年3月26日(金) 08時17分11秒 |
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1878(明治11)年のこの日、東京・銀座木挽町中央電信局が開設され、その祝賀会会場であった工部大学校(東京大学工学部)で50個のアーク灯が点灯しました。 これが日本初の電灯です。 これを記念して日本電気協会が1927(昭和2)年に制定しました。
2010年3月25日(木) 08時17分50秒 |
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ひな祭りとは、平安時代の京都の風習だった子供の無病息災を願う上巳の節句(じょうみのせっく)と、ままごとの遊びが江戸時代初期に融合し、女の子のお祭りになったといわれています。 ひな祭りという呼び名は、小さな人形で「ままごと遊び」することを「ひいな遊び」と呼んでいたのが語源です。 はじめは京都の上流階級の家だけの行事でしたが、しだいに民間の行事となり、やがては地方へとひろまっていきます。 ひな祭りは江戸時代中期にかけて年々盛んになり、人形やひな壇もどんどん派手になっていきました。 当時は等身大の人形をかざったひな壇もあったといいます。 ですが、1721年(享保6)に、ぜいたくな生活を規制する当時の江戸幕府によって、ひな人形の大きさは24cm以下とさだめられました。
ひな祭りのことを別名で「モモの節句」といいますが、それは当時の旧暦の3月3日は、現在の4月上旬にあたり、ちょうどモモの花も開くころだったからです。 また江戸時代、ひな祭りの日には、銭湯でモモの葉をお風呂に入れた「桃の湯」に入るのが流行していました。 昔話の桃太郎が鬼を退治するように、植物のモモには災いをおいはらう効能があると信じられていたからです。
みなさんも、ひな祭りにはモモの入浴剤で「桃の湯」を楽しんではいかがでしょうか。
桃の節句に関する昔話
むかしむかし、ある村に、おばあさんと美しい娘が二人でくらしていました。 ある年の田植えの季節に、おばあさんは町へ買いものにでかけました。 帰りに田んぼのあぜ道を歩いていると、ヘビがカエルを追いつめて、今にものみこもうとしています。 「これこれ、なにをする。ゆるしておやり。ほしいものがあれば、わしがやるから」 カエルをかわいそうに思っておばあさんがいうと、ヘビはおばあさんの顔を見あげながらいいました。 「それなら、娘をわしの嫁にくれるか?」 おばあさんは、ヘビの言うことなどとあまり気にもとめずに、 「よしよし。わかったから、カエルを逃がしてやるんだよ」 と、返事をしてしまったのです。 すると、その年の秋もふかまったころ、若い侍(さむらい)が毎晩、娘の部屋へやってきて、夜がふけるまで娘と楽しそうに話していくようになったのです。 そんなある日の事、一人の易者(えきしゃ)が家の前を通りました。 おばあさんは易者を呼びとめると、娘にはないしょで、毎晩のようにやってくる若い侍の事をうらなってもらいました。 すると易者は、こんなことをいいました。 「ほほう。その若い侍の正体はヘビじゃ。ほうっておくと、娘の命はなくなる。娘を救いたいのなら、裏山の松の木にワシが卵をうんでおるから、その卵を侍にとってもらって、娘に食べさせるんじゃな」 おばあさんはビックリして、この話を娘にしました。 娘もおどろいて、その晩やってきた若い侍にいいました。 「実は最近、とても体がだるいのです。元気をつけるために、裏山の松の木に巣をつくっているワシの卵をとってきて食べさせてくださいな」 「よしよし、そんなことはたやすいことよ」 次の日、若い侍は裏山へいって、ワシの巣がある高い木にのぼっていきましたが、そのときいつのまにか、若い侍はヘビの姿になっていたのです。 そして木をよじのぼって、巣の中にある卵を口にくわえたとたん、親ワシがもどってきました。 親ワシはするどいくちばしで、大事な卵をくわえたヘビを何度もつつきました。 そしてヘビは頭を食いちぎられ、血だらけになって木から落ちていきました。 そのころ、あの易者がまたおばあさんの前に現われると、おばあさんに頭を下げていいました。 「実はわたしは、いつぞや田んぼのあぜ道で命をすくわれたカエルなのです。娘さんの体には、まだヘビの毒が残っております。これからは毎年、三月三日の節 句(せっく)にお酒の中に桃の花びらを浮かべてお飲みください。そうすればヘビの毒ばかりではなく、からだにたまったどんな毒もみんな消えて、きれいにな りますから」 そういうと目の前の易者の姿はたちまち消えてしまい、一匹のカエルが庭先の草むらの中へ、ピョンピョンと飛んでいったのです。 桃の節句で、お酒の中に桃の花びらを浮かべて飲むようになったのは、このときからだという事です。
2010年3月24日(水) 08時25分17秒 |
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1928(昭和3)年、高島屋呉服店が上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で日本初のマネキンを登場させました。 マネキンは人形ではなく人、つまり「マヌカン」でした。 「招金(まねきん)」に通じることから、フランス語のマヌカンではなく英語のマネキンを使ったといいます。
2010年3月23日(火) 08時29分38秒 |
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気象の共同観測や資料交換などの国際協力を目的に、世界気象機関(WMO)が1950(昭和25)年のこの日に発足しました。 日本は世界気象機関に1953(昭和28)年に加盟しています。 同機関の発足10周年を記念して制定されました。
天気に関する昔話
むかしむかし、ネズミの一家がいました。 父さんネズミと母さんネズミと一人娘のチューコです。 「ねえ、おとうさん。そろそろチューコにも、おむこさんを見つけなくてはなりませんね」 「そうだな、チューコは世界一の娘だから、世界一のおむこさんを見つけてやらないとな。ところで、世界一強いのは、やっぱりお日様だろうな」 父さんネズミと母さんネズミは、お日様のところへ行って頼んでみました。 「世界一強いお日様。チューコをお嫁にもらってくれませんか?」 「そりゃうれしいが、雲はわしより強いぞ。わしをかくしてしまうからな」 そこで、父さんネズミと母さんネズミは、雲のところへ行ってみました。 「世界一強い雲さん。チューコをお嫁にもらってくれませんか?」 「そりゃうれしいが、風はわしより強いぞ。わしを簡単にふきとばしてしまうからな」 そこで、父さんネズミと母さんネズミは、風のところへ行ってみました。 「世界一強い風さん、チューコをお嫁にもらってくれませんか?」 「そりゃうれしいが、壁はわしより強いぞ。わしがいくら吹いても、わしをはね返してしまうんじゃ」 そこで、父さんネズミと母さんネズミは、壁のところへ行ってみました。 「世界一強い壁さん。チューコをお嫁にもらってくれませんか?」 「そりゃうれしいが、わしよりも強いものがいるぞ。それはネズミじゃ。ネズミにかじられたら、わしもおしまいだからな」 「なんと、世界で一番強いのは、わしらネズミだったのか」 そこでチューコは、めでたくネズミのお嫁さんになりました。
2010年3月22日(月) 08時24分02秒 |
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1925(大正14)年のこの日、東京放送局(NHK)が日本初のラジオ仮放送を始めました。 東京・芝浦にある東京高等工芸学校の仮スタジオから第一声が流れたのは午前9時30分。 これを記念して、日本放送協会(NHK)が1943(昭和18)年に制定しました。
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