1840(天保11)年のこの日、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元が北町奉行に任命されました。 1843(天保14)年2月24日まで在職しています。 江戸には北町奉行所と南町奉行所があり、1ヶ月ごとに、交替で勤務にあたっていました。
名裁きに関する昔話
むかし、江戸の下町(したまち)に、おしずと、たいちという親子がすんでいました。 たいちは、今年、十才になるかわいい男の子です。 おしずは、たいちをとてもかわいがって育てていたのです。 ところが、ある日、突然、おこまという女の人がやってきて、「おしずさん、たいちはわたしの息子。むかし、あなたにあずけたわたしの息子です。かえしてください」と、言うのです。 おしずはおどろいて、「何を言うのです。あなたからあずかった子は、もう十年も前に亡くなったではありませんか。この事は、おこまさんだって知っているでしょう」「いいえ、うそをいってもだめです。お前さんは自分の子が死んだのに、わたしの子が死んだと言ってごまかして、わたしの息子をとりあげてしまったんじゃありませんか。わたしはだまされませんよ。さあ、すぐにかえしてください!」 おこまは、こわい顔でそう言いはるのです。 おしずが、いくら違うといっても聞きません。 毎日、毎日、おこまはやってきては、同じ事をわめきたてていくのです。 そしてしまいには、顔にきずのある、おそろしい目つきの男をつれてきて、「さあ、はやくかえしてくれないと、どんな目にあうかわからないよ!」と、おどかすのです。 おしずは困りはてて、町奉行(まちぶぎょう)の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)にうったえました。 越前守は話を聞くと、おこま、おしず、たいちの三人をよびました。「これ、おこま。お前は、そこにいるたいちを自分の息子だと言っているそうだが、何か証拠はあるのか?」「はい。実はこの子が生まれましたとき、わたしはおちちが出なかったので、おしずさんにあずけたのです。この事は、近所の人がみんな知っています。だれにでもお聞きになってください」 おこまは、自信たっぷりに答えました。「では、おしずにたずねる。お前は、おこまの子どもをあずかった覚えがあるのか?」「はい。ございます」 おしずは、たいちの手をしっかりとにぎりしめて言いました。「この子が生まれた時、わたしはおちちがたくさん出ました。それで、おこまさんの子どものひこいちをあずかったのです。でも、その子はまもなく病気で死んでしまいましたので、すぐにおこまさんに知らせたのでございます」 おしずの言葉を聞くと、おこまはおそろしい目で、おしずをキッと、にらんでさけびました。「このうそつき! お奉行(ぶぎょう)さま、おしずは大うそつきです。死んだのはおしずの子です。わたしの子どもをかえしてください!」「いいえ、死んだのは、たしかにひこいちだったんです。お奉行さま、まちがいありません。おこまの子は死んだのです」「まだそんな事を言って! 人の子をぬすんだくせに!」「たいちはわたしの子だよ。だれにもわたしゃしない。わたしの大事な子なんだ!」 二人は、お奉行さまの前であることもわすれて、言いあらそいました。 その二人の様子をジッとみつめていた越前守は、やがて、「二人とも、しずまれっ!」と、大声でしかりました。 おこまとおしずは、あわててはずかしそうに、すわりなおしました。「おこま。その息子がお前の子どもである、たしかな証拠はないか? たとえば、ほくろがあるとか、きずあとがあるとか。そういう、めじるしになるようなものがあったら言うがいい」 おこまは、くやしそうに首をよこにふりました。「・・・いいえ。それが、何もありません」「では、おしず。そちはどうじゃ?」 おしずも残念そうに、首をふりました。「・・・いいえ。何もございません」「そうか」 越前守はうなずいて、「では、わしが決めてやろう。おしずはたいちの右手をにぎれ。おこまはたいちの左手をにぎるのじゃ。そして引っぱりっこをして、勝った方を、本当の母親に決めよう。よいな」「はい」「はい」 二人の母親は、たいちの手を片方ずつにぎりました。「よし、引っぱれ!」 越前守の合図で、二人はたいちの手を力いっぱい引っぱりました。「いたい! いたい!」 小さいたいちは、両方からグイグイ引っぱられて、悲鳴をあげて泣き出しました。 その時、ハッと手をはなしたのは、おしずでした。 おこまはグイッと、たいちをひきよせて、「勝った! 勝った!」と、大喜びです。 それを見て、おしずはワーッと、泣き出してしまいました。 それまで、だまって様子を見ていた越前守は、「おしず。お前は負けるとわかっていて、なぜ、手をはなしたのじゃ?」と、たずねました。「・・・はい」 おしずは、泣きながら答えました。「たいちが、あんなに痛がって泣いているのを見ては、かわいそうで、手をはなさないではいられませんでした。・・・お奉行さま。どうぞ、おこまさんに、たいちをいつまでもかわいがって、幸せにしてやるように、おっしゃってくださいまし」「うむ、そうか」 越前守は、やさしい目でうなずいてから、しずかな声でおこまに言いました。「おこま、いまのおしずの言葉を聞いたか?」「はいはい、聞きました。もちろん、この子はわたしの子なのですから、おしずさんに言われるまでもありません。うんとかわいがってやりますとも。それにわたしは、人の息子をとりあげて、自分の子だなんていう、大うそつきとはちがいますからね。だいたい、おしずさんは」「だまれ! おこま!」 越前守は、とつぜんきびしい声で言いました。「お前には、痛がって泣いている、たいちの声が聞こえなかったのか! ただ勝てばいいと思って、子どもの事などかまわずに手を引っぱったお前が、本当の親であるはずがない! かわいそうで手をはなしたおしずこそ、たいちの本当の親じゃ。どうだ、おこま!」 越前守の言葉に、おこまはまっ青になって、ガックリと手をつきました。「申し訳ございません!」 おこまは、自分がたいちをよこどりしようとしたことを白状しました。「お母さん!」「たいち!」 たいちは、おしずの胸に飛び込みました。「お奉行さま、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」 おしずは、越前守をおがむようにして、お礼を言いました。「うむ、これにて、一件落着!」
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